三友ヒストリー

第一話 「不便さ」がもたらしたチャンス

頼れる先がない

創業者である井上明義が不動産鑑定業者の存在を知ったのは、日本生命保険相互会社で企業融資を担当していた昭和42(1967)年のことです。融資限度額を判断するために、融資先企業に担保となる不動産や工場財団についての不動産鑑定評価書の提出を求めていたのですが、当時は融資先企業が自ら鑑定業者を手配し、鑑定料金も支払っていたので、その料金体系や鑑定業界の実情については直接知る機会はありませんでした。

ところがその後、住宅融資課に移ってから転機が訪れます。住宅融資課では連日多数の融資申込案件を迅速に処理しなければなりませんでしたが、住宅の担保価値を判断する手立てがなく困っていました。物件周辺の不動産仲介業者に電話で相場を問い合わせても、素人同然であったためか軽くあしらわれ、本当のところを教えてもらえないといったことも度々でした。

そこで井上は、企業融資でその存在を知った不動産鑑定業者にお願いしてみようと考えます。ところが、当時の不動産鑑定は法人所有の大型物件が中心で、個人用の住宅といった小粒案件はほとんど見向きもされず、取り扱ってくれても料金は非常に割高で、時間も数週間はかかるといった有り様でした。事務手数料を数万円程度しか徴収できない住宅ローンでは担保評価に多くの費用を割けません。スピード感にも大きな隔たりがあり、不動産鑑定を利用したくても利用できませんでした。

ビッグマーケットの予感
図1:マイホーム市場急拡大に伴い、住宅ローン需要も急増した
図1:マイホーム市場急拡大に伴い、住宅ローン需要も急増した

当時の日本はマイホーム需要が猛烈な勢いで拡大しつつありました。井上は、住宅ローンの増大とともに担保評価需要の大波が到来するに違いないと予測します。金融機関にとって不動産鑑定がもっと利用しやすいサービスになれば、きっとビッグマーケットになるに違いない・・・自らが味わった「不便さ」が、生来のアイディアマンである井上に事業創出のスイッチを入れました。

アイディアだけが元手の起業

誰もやらないなら自分で起業するほかはないと、井上は昭和55(1980)年5月にサラリーマン生活に別れを告げて不動産鑑定会社を興します。創業時の事務所は新宿御苑前の小さなビルの一室。井上43歳、アルバイトの女性と二人だけのスタートでした。事務所にはコピー機もなく、同じフロアーの会社に頼み込んで一枚いくらかで複写させてもらっていたそうです。

常に顧客の立場に立ち、「無くて困ったことと、顧客の苦情は商品開発の最大のヒント」との経営哲学が、その後の商品開発にも存分に発揮されていきました。